『以仁王』―4
反平家の動きは治承4年(1180年)8月の頼朝の挙兵、9月の義仲の挙兵と続きます。
翌・養和元年(1181年)閏2月、平清盛の突然の死から平家の栄華に陰りが見えたと言われます。
まあ、実際はその年の初めの、高倉新院の死が大きかったと思います。
平滋子を母に持ち、安徳天皇の父であるこの高倉院は常に平家と朝廷(後白河院?)の仲を取り持ち、
命を削る程に腐心してきたのでした。
もう、滋子も死んでいたこの時、高倉院の死によって再び院政を敷くことになる後白河法皇とのパイプを平家は完全に失ってしまったのでした。
清盛の死のすぐあとに起こった源行家との墨俣川の戦こそ勝利しますが、6月の横田河原合戦で
一族の城氏が木曽義仲に大敗北を喫します。
その頃には「養和の大飢饉」が始まって、木曽義仲軍を支えていたのはその飢えた兵隊たちだったのです。
その最中、「以仁王」が熊野へ果たして行けたのか大いに疑問が残ります。
義仲軍は頼朝との対決を避け、西へ進みます。
倶利伽羅峠の戦で平維盛軍を破った義仲軍は平家が捨てた京へ入ります。
そこでの義仲軍の狼藉は『平家物語』に詳しいです。
食べ物を求めて来た京での彼らは凄まじかったことでしょう。
しかし、義仲が朝廷より嫌われた理由はそんなことではありません。
安徳天皇が去った後の皇位に対して、義仲は以仁王の遺児「北陸宮」を推したのです。
単純で、義理堅い義仲にしてみれば、自分の挙兵の大儀となった以仁王こそ皇位に相応しいと
思ったのでしょう。
そして、もしこの時点(寿永2年・1183年)で以仁王が生存していたならば、
きっと以仁王本人を推したはずです。
皇位継承に口を挟んだことにより、義仲はいよいよ嫌われます。
後白河法皇は都を逃れた平家を追討せよ、と義仲にしつこく迫ります。
(京から追い出したかったのでしょうね)
しかし、飢餓に押されて入京した義仲軍は、京の食糧事情もあまり変わらなかった事に失望し、
多くが故郷に帰ってしまっていたのでした。
後白河法皇は頼朝に対して「義仲追討」の院宣を下します。
もう、平家を壊滅出来る程の兵を持たない義仲は、後白河法皇を武力によって幽閉するに至ったのでした。
頼朝の命で西上した義経によって、義仲は排除されます。
このくだりは『平家物語』で「木曽殿最期」として哀切を込めて語られています。
また、日付が変わってしまった~。
今年はもう久々に関係のないバレンタインだった…。
翌・養和元年(1181年)閏2月、平清盛の突然の死から平家の栄華に陰りが見えたと言われます。
まあ、実際はその年の初めの、高倉新院の死が大きかったと思います。
平滋子を母に持ち、安徳天皇の父であるこの高倉院は常に平家と朝廷(後白河院?)の仲を取り持ち、
命を削る程に腐心してきたのでした。
もう、滋子も死んでいたこの時、高倉院の死によって再び院政を敷くことになる後白河法皇とのパイプを平家は完全に失ってしまったのでした。
清盛の死のすぐあとに起こった源行家との墨俣川の戦こそ勝利しますが、6月の横田河原合戦で
一族の城氏が木曽義仲に大敗北を喫します。
その頃には「養和の大飢饉」が始まって、木曽義仲軍を支えていたのはその飢えた兵隊たちだったのです。
その最中、「以仁王」が熊野へ果たして行けたのか大いに疑問が残ります。
義仲軍は頼朝との対決を避け、西へ進みます。
倶利伽羅峠の戦で平維盛軍を破った義仲軍は平家が捨てた京へ入ります。
そこでの義仲軍の狼藉は『平家物語』に詳しいです。
食べ物を求めて来た京での彼らは凄まじかったことでしょう。
しかし、義仲が朝廷より嫌われた理由はそんなことではありません。
安徳天皇が去った後の皇位に対して、義仲は以仁王の遺児「北陸宮」を推したのです。
単純で、義理堅い義仲にしてみれば、自分の挙兵の大儀となった以仁王こそ皇位に相応しいと
思ったのでしょう。
そして、もしこの時点(寿永2年・1183年)で以仁王が生存していたならば、
きっと以仁王本人を推したはずです。
皇位継承に口を挟んだことにより、義仲はいよいよ嫌われます。
後白河法皇は都を逃れた平家を追討せよ、と義仲にしつこく迫ります。
(京から追い出したかったのでしょうね)
しかし、飢餓に押されて入京した義仲軍は、京の食糧事情もあまり変わらなかった事に失望し、
多くが故郷に帰ってしまっていたのでした。
後白河法皇は頼朝に対して「義仲追討」の院宣を下します。
もう、平家を壊滅出来る程の兵を持たない義仲は、後白河法皇を武力によって幽閉するに至ったのでした。
頼朝の命で西上した義経によって、義仲は排除されます。
このくだりは『平家物語』で「木曽殿最期」として哀切を込めて語られています。
また、日付が変わってしまった~。
今年はもう久々に関係のないバレンタインだった…。