南北朝時代の皇子たち―8
四条畷の戦で大勝利をおさめた高師直が吉野まで攻め入ったことは前回書きました。
その勝利で勢いづいた高師直は尊氏の弟の足利直義と対立するようになります。
その対立で高師直たちが尊氏邸に逃げ込んだ直義を取り囲むという事態になり、
直義は鎌倉にいた義詮(尊氏嫡男)に政務を譲渡して出家することで決着しました。
しかし、それで済みませんでした。
尊氏は自らの庶子で直義の猶子となっていた直冬に対し討伐の兵を出したのです。
実の父に散々に疎んじられていたこの甥を、直義は大変可愛がっていました。
その我が子の窮地を知るや、ついに直義は起ちます。
義理固く、足利家を第一に思っていた直義なら、直冬攻めさえなかったら兄弟対決など
決してしなかったでしょう。
ここに「観応の擾乱」が始まります。
直義はまず南朝に降伏し、後村上天皇から尊氏追討の綸旨を貰い受けます。
そうしておいて直義は、摂津打出浜において尊氏軍を破りました。
すると、尊氏はあっけなく降伏し、尊氏・直義兄弟は和睦します。
この時一緒に入京しようとした高氏一党は、先に誅殺された直義派の上杉氏によって惨殺されました。
そうして何事もなかったように暮らせる筈もなく、二人の間には常に緊張が付きまとっていました。
そのうちに尊氏が南朝に通じ、危険を感じた直義は京都を脱出して鎌倉へ入ります。
尊氏は背後の憂いを無くす為に南朝と和睦し、北朝の天皇を廃します。
これを「正平の一統」と言います。
尊氏は直義追討の綸旨を受け、鎌倉を制圧しました。
翌月には直義も暗殺されます。
この泥沼化した武家方の内紛に乗じて、南朝は鎌倉の奪還を謀りました。
すなわち、正平七年閏二月成良親王のあとしばらく停止していた征夷大将軍の座に宗良親王を任じたのです。
思いがけない任命に宗良親王は戸惑いを隠せません。
「思いきや手もふれざりし梓弓 おきふし我が身なれむものとは」
という歌を詠んでいます。
鎌倉攻撃は新田軍が主力となります。
義貞の遺児・義興と義宗、そして彼の従兄弟・脇屋義治たちです。
宗良親王は諏訪氏と共に碓井峠まで進軍しました。
南朝は小手指ケ原の戦で敗れるまで鎌倉を占領しますが、やがて尊氏軍に追われます。
宗良親王は再び信濃へ戻ります。
宗良親王は翌年から2年程越後で過ごしたのち、信濃にあったようです。
その間、何度か後村上天皇から軍の催促を受けて、歌のやりとりをしています。
文中三年、やっとのことで吉野に帰った宗良親王には、もう待つ人はいませんでした。
歳の離れた弟である後村上天皇は6年も前に亡くなり、当代の長慶天皇とは初対面でした。
ちなみに同じとき九州では懐良親王が甥の後村上皇子・良成親王に征西将軍職を譲っていますので、
各地で新しい戦略を展開していたのかも知れません。
宗良親王は三年後には信濃へ出立し、途中の長谷寺で二度目の出家をします。
その後の足取りはよく判りませんが、恐らく信濃へは行かずに吉野へ引き返したようです。
そこで『李花集』を纏め、天授元年頃からは『新葉和歌集』を手掛けました。
興和元年、長慶天皇の綸旨により『新葉和歌集』は勅撰集とされました。
その後のことはまるで判りませんが信濃大川原で亡くなったことが、
京都醍醐寺の『三宝院文書』から分かります。
後醍醐天皇の薄幸な皇子たちの中で、70年以上生きたようです。
墓陵は宗良親王と縁の深かった井伊谷にあります。
何年か前にエコパのついでに龍潭寺に行ったときに「隣の神社も行こうか」と寄ったのが「井伊谷宮」で、
宗良親王の墓があって驚嘆したものです。
南北朝時代を知らなかったわけじゃない私でさえ、そんな感じだったので、
一般の方はあまり興味ないでしょうが、こんなにのどかなところで奉られているんだなあ…と
感慨深いです。
(写真が見つからなかった…ので、となりの龍潭寺です)
生来の歌人でありながら、戦と漂泊に身を委ねなくてはならなかった親王の、
せめて穏やかな余生を祈らずにいられません。
その勝利で勢いづいた高師直は尊氏の弟の足利直義と対立するようになります。
その対立で高師直たちが尊氏邸に逃げ込んだ直義を取り囲むという事態になり、
直義は鎌倉にいた義詮(尊氏嫡男)に政務を譲渡して出家することで決着しました。
しかし、それで済みませんでした。
尊氏は自らの庶子で直義の猶子となっていた直冬に対し討伐の兵を出したのです。
実の父に散々に疎んじられていたこの甥を、直義は大変可愛がっていました。
その我が子の窮地を知るや、ついに直義は起ちます。
義理固く、足利家を第一に思っていた直義なら、直冬攻めさえなかったら兄弟対決など
決してしなかったでしょう。
ここに「観応の擾乱」が始まります。
直義はまず南朝に降伏し、後村上天皇から尊氏追討の綸旨を貰い受けます。
そうしておいて直義は、摂津打出浜において尊氏軍を破りました。
すると、尊氏はあっけなく降伏し、尊氏・直義兄弟は和睦します。
この時一緒に入京しようとした高氏一党は、先に誅殺された直義派の上杉氏によって惨殺されました。
そうして何事もなかったように暮らせる筈もなく、二人の間には常に緊張が付きまとっていました。
そのうちに尊氏が南朝に通じ、危険を感じた直義は京都を脱出して鎌倉へ入ります。
尊氏は背後の憂いを無くす為に南朝と和睦し、北朝の天皇を廃します。
これを「正平の一統」と言います。
尊氏は直義追討の綸旨を受け、鎌倉を制圧しました。
翌月には直義も暗殺されます。
この泥沼化した武家方の内紛に乗じて、南朝は鎌倉の奪還を謀りました。
すなわち、正平七年閏二月成良親王のあとしばらく停止していた征夷大将軍の座に宗良親王を任じたのです。
思いがけない任命に宗良親王は戸惑いを隠せません。
「思いきや手もふれざりし梓弓 おきふし我が身なれむものとは」
という歌を詠んでいます。
鎌倉攻撃は新田軍が主力となります。
義貞の遺児・義興と義宗、そして彼の従兄弟・脇屋義治たちです。
宗良親王は諏訪氏と共に碓井峠まで進軍しました。
南朝は小手指ケ原の戦で敗れるまで鎌倉を占領しますが、やがて尊氏軍に追われます。
宗良親王は再び信濃へ戻ります。
宗良親王は翌年から2年程越後で過ごしたのち、信濃にあったようです。
その間、何度か後村上天皇から軍の催促を受けて、歌のやりとりをしています。
文中三年、やっとのことで吉野に帰った宗良親王には、もう待つ人はいませんでした。
歳の離れた弟である後村上天皇は6年も前に亡くなり、当代の長慶天皇とは初対面でした。
ちなみに同じとき九州では懐良親王が甥の後村上皇子・良成親王に征西将軍職を譲っていますので、
各地で新しい戦略を展開していたのかも知れません。
宗良親王は三年後には信濃へ出立し、途中の長谷寺で二度目の出家をします。
その後の足取りはよく判りませんが、恐らく信濃へは行かずに吉野へ引き返したようです。
そこで『李花集』を纏め、天授元年頃からは『新葉和歌集』を手掛けました。
興和元年、長慶天皇の綸旨により『新葉和歌集』は勅撰集とされました。
その後のことはまるで判りませんが信濃大川原で亡くなったことが、
京都醍醐寺の『三宝院文書』から分かります。
後醍醐天皇の薄幸な皇子たちの中で、70年以上生きたようです。
墓陵は宗良親王と縁の深かった井伊谷にあります。
何年か前にエコパのついでに龍潭寺に行ったときに「隣の神社も行こうか」と寄ったのが「井伊谷宮」で、
宗良親王の墓があって驚嘆したものです。
南北朝時代を知らなかったわけじゃない私でさえ、そんな感じだったので、
一般の方はあまり興味ないでしょうが、こんなにのどかなところで奉られているんだなあ…と
感慨深いです。
(写真が見つからなかった…ので、となりの龍潭寺です)
生来の歌人でありながら、戦と漂泊に身を委ねなくてはならなかった親王の、
せめて穏やかな余生を祈らずにいられません。