福岡旅行⑤

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大宰府というのは、朝廷が海外との出先機関として筑前に置いた役所で、推古朝の時代には早くも存在していたようですが、その設置の確かな年数は分かりません。
その長官は「帥(そち)」と言いまして、主に大陸との貿易に大きな権限を持っていました。
 
しかし、九州における軍事の統括もこの役所の大きな役割で、後に武士の時代になると、九州の戦はこの大宰府の攻防戦でもありました。
元寇」でも1日目の惨敗の後に早々にここまで引き上げていますので、九州探題が出来た後も重要な拠点だったことが分かります。
 
…と、言うかよくよく調べてみると、この地は軍事的な利点から選ばれた土地だと言う事が分かります。
上は大宰府政庁跡からの四王寺山で、ここに大野城がありました。
反対側の南には基山があり、そこには基肄(きい)城があって、水城や大野城と共に称制を行っていた中大兄皇子(のちの天智天皇)によって造営が始められたと言われています。(斉明天皇の指示じゃないのかなあ…)
 
この造りだと大宰府において激戦を想定していたんだなあ…と、思いますが、じゃあ大宰府は何を守りたかったのか?私としては非常に疑問が残ります。
この横の大宰府展示館の模型見て、謎はますます深まりました。
 
イメージ 2普通「跡地」なんて行ってもツマンないイメージですが、ここのロマンは半端なかったです。
四王寺山脈の景色は昔と殆ど変わっていないでしょうし、
政庁があった時はきっともっと賑わっていたんでしょうが、
この緑の景色が太古のロマンをかきたてます。
 
 
斉明天皇から天智天皇の時代にかけて、日本は戦争の最中でした。
老女帝まで九州に赴いての「白村江の戦」は惨敗に終わり、朝廷は九州における国防に全力を注いだのです。
 
斉明天皇の土木事業は相当なもので、灌漑事業を指して「戯心(たぶれごころ)の溝」などと言われました。
その溝ではないけれど、奈良時代後期の石敷溝がここで発見されて、それを保存する為に大宰府展示館が建てられたということです。
 
 
 
さて、実際のその防衛が役に立ったのか、知らない人も多いと思います。
私はこの「大宰府」と言えば、真っ先に思い出すのが大宰権帥だった藤原隆家です。
 
隆家は清少納言が仕えた中関白家の御曹司で、伊周や定子の弟にあたります。
若い頃からヤンチャな性格で、中関白家の凋落の発端となった花山院射撃事件を起こしたのも彼でした。
その時、大宰権帥とされ、九州に流された(実際は行かなかった)のは伊周で、そのことから伊周の娘がのちに彰子に仕えるようになったときに「帥殿の局」などと呼ばれたのは前にちょっと書きました。
 
中関白家が完全に落ちぶれても、隆家だけは気概を失わなかったようで、「反道長派」として『小右記』の中の重要な登場人物として書き残されています。
隆家の従者は度々、障害事件を起こしているように荒っぽい武者が多く仕えていました。
 
さて、私たちは「元寇」の時の無能な朝廷のイメージがあまりに強いのか、平安貴族は国防意識なんてまるでない軟弱ヤローだと思っている方が殆どだと思います。
しかし、平安貴族は結構内裏でも大喧嘩していますし、何か因縁のある相手だとすぐに従者を半殺しにしたりする荒っぽい一面もあるのです。
 
もちろん、国の政治を担っている自負もありまして、決して正義を貫こうとしたワケではないけれど、武士が台頭した時代の貴族と違って、国政に責任は持っていたようです。
 
隆家は後年、大宰府の帥として九州に下って、そこで女真族刀伊の入寇を撃退したのでした。
小右記」には目の悪い隆家に実資が「宋人のいい薬があるだろうから」と九州行きを勧めた話が載っています。
それで大宰権帥にして貰った(その頃の彼には降格という程の人事ではなかった)隆家が、九州にいた時にたまたま刀伊が攻めて来て、元々武力に優れていた隆家がたまたま跳ね返したのだと私はずっと思っていました。
 
ですが、よく資料を見ると、この時戦った九州の武士団が実は元々、中関白家に仕えていた人々だというのが分かります。
つまり、隆家は中関白家の棟梁(兄・伊周はすでに死亡)として九州の武士団を従える立場の人だったので、刀伊の来襲に備えて朝廷は彼をあらかじめ大宰府に送ったのです。
 
後年、隆家の筋からは「平治の乱」を引き起こした藤原信頼が出ています。
彼が源義朝ら武士団を従えたのも、自然なことだったのです。
 
このように大宰府は国防の中心として、九州の覇権の象徴として君臨したのでした。