福岡旅行⑤
その長官は「帥(そち)」と言いまして、主に大陸との貿易に大きな権限を持っていました。
しかし、九州における軍事の統括もこの役所の大きな役割で、後に武士の時代になると、九州の戦はこの大宰府の攻防戦でもありました。
…と、言うかよくよく調べてみると、この地は軍事的な利点から選ばれた土地だと言う事が分かります。
この横の大宰府展示館の模型見て、謎はますます深まりました。
普通「跡地」なんて行ってもツマンないイメージですが、ここのロマンは半端なかったです。
四王寺山脈の景色は昔と殆ど変わっていないでしょうし、
政庁があった時はきっともっと賑わっていたんでしょうが、
この緑の景色が太古のロマンをかきたてます。
老女帝まで九州に赴いての「白村江の戦」は惨敗に終わり、朝廷は九州における国防に全力を注いだのです。
斉明天皇の土木事業は相当なもので、灌漑事業を指して「戯心(たぶれごころ)の溝」などと言われました。
さて、実際のその防衛が役に立ったのか、知らない人も多いと思います。
隆家は清少納言が仕えた中関白家の御曹司で、伊周や定子の弟にあたります。
若い頃からヤンチャな性格で、中関白家の凋落の発端となった花山院射撃事件を起こしたのも彼でした。
その時、大宰権帥とされ、九州に流された(実際は行かなかった)のは伊周で、そのことから伊周の娘がのちに彰子に仕えるようになったときに「帥殿の局」などと呼ばれたのは前にちょっと書きました。
隆家の従者は度々、障害事件を起こしているように荒っぽい武者が多く仕えていました。
さて、私たちは「元寇」の時の無能な朝廷のイメージがあまりに強いのか、平安貴族は国防意識なんてまるでない軟弱ヤローだと思っている方が殆どだと思います。
しかし、平安貴族は結構内裏でも大喧嘩していますし、何か因縁のある相手だとすぐに従者を半殺しにしたりする荒っぽい一面もあるのです。
もちろん、国の政治を担っている自負もありまして、決して正義を貫こうとしたワケではないけれど、武士が台頭した時代の貴族と違って、国政に責任は持っていたようです。
「小右記」には目の悪い隆家に実資が「宋人のいい薬があるだろうから」と九州行きを勧めた話が載っています。
それで大宰権帥にして貰った(その頃の彼には降格という程の人事ではなかった)隆家が、九州にいた時にたまたま刀伊が攻めて来て、元々武力に優れていた隆家がたまたま跳ね返したのだと私はずっと思っていました。
ですが、よく資料を見ると、この時戦った九州の武士団が実は元々、中関白家に仕えていた人々だというのが分かります。
つまり、隆家は中関白家の棟梁(兄・伊周はすでに死亡)として九州の武士団を従える立場の人だったので、刀伊の来襲に備えて朝廷は彼をあらかじめ大宰府に送ったのです。
彼が源義朝ら武士団を従えたのも、自然なことだったのです。
このように大宰府は国防の中心として、九州の覇権の象徴として君臨したのでした。